古民家とその敷地の歴史

 2016年の初夏から再生工事が始まった海崎は戸穴の河内区にある古民家は、私の祖父、故西嶋友次郎の生家でもあります。安政6(1859)年に建てられたとされる(注:屋根裏で発見した棟札に書かれていた記録)この古民家は江戸時代の頃から戸穴で庄屋を務めていた広瀬家代々の家屋であり、かつては長屋門や蔵もありましたが、戦後壊されてしまいました。祖父は広瀬友次郎としてこの家に生まれ、従姉であった西嶋セツと結婚し、婿入りして佐伯市旧市街の新屋敷にあった糸屋の商いを任されます。その後仲町商店街の二丁目に店を移転し「志ま屋」布団店を開業しましたが、ライフスタイルが変化し、婚礼布団をつくる習慣がすたれていくとともに経営難に陥り私が中学一年の頃に廃業となりました。

 私が2014年に大学院を卒業し、地元に戻って地域づくりの活動拠点として古民家を探していた際、母がこの祖父の生家のことを思い出し、親戚を頼りにこの家を探し当てました。ほぼ30年近く空家であったこともあり、雨漏りやシロアリによる被害などさまざまな問題がありましたが、佐伯で古民家再生や曳家に取り組んでいる佐伯組による初期調査と、その後古民家再生の設計を依頼した熊本県熊本市川尻の設計士である古川保先生による詳細な調査によって再生可能であることが判明し、再生工事を決定したといういきさつがあります。

 この古民家とともにあった田や段々畑も購入しましたが、畑はかつてのみかん畑が竹林化していたため、竹藪の整備をする必要がありました。大学院の研究で知己を得た地元学の吉本哲郎さんが自分の山の竹林整備の経験があることから、わざわざ水俣から何度も車で駆けつけて竹林を切ってくださり、地元河内区の里道が復活し、広瀬家の古い墓石群があるところまでアクセスできるようになりました。将来的にはこの竹林の丘の上にある万休院というお寺へ続く里道を整備し、再び住民が里道を通って寺へ行けるようにしたいと考えています。佐伯の写真家である吉良けんこうさんによる2016年4月時点の工事前の古民家の写真を次のギャラリーでお楽しみください。

古民家再生プロジェクト

 日本の気候や風土が培った日本の伝統建築による家屋は、高温多湿の夏に合わせたデザインで、冬の寒さが欠点であり、西欧型ライフスタイルの普及も相まって、戦後の高度成長期から主流となった工場生産による便利な大量生産型ハウス建築に押され、次々と解体されているのが現状です。かつては大工が適切な木材を慎重に選び、くぎを使わない構法で移築も可能だった日本建築は、漆喰の壁や建具もすべて自然材料であり、解体後も再利用できる環境に配慮した建築物です。一方、現代的な大量生産型住宅は解体後は産業廃棄物となります。何より、日本では亜熱帯の沖縄から豪雪地帯の東北まで、地方地方の風土に合わせて、多様で特色のある日本家屋が生まれてきました。それは建築という枠を超え、さまざまな生活文化を生み出してきました。例えば白川郷の合掌造りの大きな茅葺屋根を維持するために葺き替えの際は労働交換としての「結」という助け合いの仕組みが生まれ、萱場という茅葺屋根の材料となる茅を育てる共有地をもち、共同で茅の手入れや刈り入れをする仕組みもできたわけです。また、大工をはじめ、建具屋、左官、庭師など、日本家屋建築にかかわる様々な職人が技を磨き、弟子たちに継承してきました。日本の伝統家屋がすたれていくということは、それに関連するさまざまな文化や職人の技術を失っていくということでもあります。建築分野に限らず、経済的、効率的だからよい、ということだけでは済まされない環境や文化の問題が家屋の形状に深くかかわっているのです。

 戸穴の古民家再生には新築なみのコストがかかりますが、それは30年も空き家だったことが主な原因であり、数年ぐらいの空き家であれば、家の状態もまだよく、再生コストはかなり安くなるでしょう。人口減で過疎化している農山漁村の古民家の空き家を解体するよりは再生し、現代的な機能も加えたリフォームをすることで、30年以上のローンを組んで新築するよりずっと安いコストで若いカップルが広々とした民家で暮らし、自然豊かな環境で多くの子どもたちをのびのびと育てることができるようになるのではないでしょうか。あるいは古民家の特徴を生かした手作りリフォームで職人の工房にしたり、外国人旅行者向けのゲストハウスに改造したり、カフェなどの店舗にしたりとさまざまな可能性も秘められています。若者が移住したいと思うような魅力的な地域となるためには、もちろん家だけでなく、保育施設や学校、病院へのアクセスなど様々な社会サービスの充実も付随してきますが、まずは手始めに、「住」という切り口から、どう見ても再生不可能な状態にみえる戸穴の古民家が、適切な設計と職人の技術をもってすれば十分快適な建築物に再生できるというモデルを提示し、今後佐伯市における空き家再生の取り組みにつなげていきたいと、施主は考えています。

「遊志庵」について

 古民家が再生された暁には、この家屋は「あまべ文化研究所」の活動拠点としての場として、「遊志庵」と呼ばれるようになります。「遊」という文字から遊びが連想されるのはもっともなことですが、作家で僧侶である玄侑宗久さんによる中国の荘子の解説によれば、「遊」とはもともと神しか主語になれない動詞であり、荘子はそれを「時間と空間に縛られない世界」、たとえば何物にもとらわれることのない無意識の境地であったり、役立たずだと思っていたものが実は大きな価値を持っているという「無用の用」であったり、変えようのない互いの「もちまえ」を認め合うあり方であったりする、と述べています。こうした「遊」のもつ多様な意味をふまえ、子どもも大人も無心になって何かに没頭することや、行動や考え方、技術などに「遊び」の部分を含むことは、人間がより善く生きるためにとても大事な意味をもっていると施主は考えています。「志」については、祖父友次郎と父が経営していた布団店の「志ま屋」にちなんで採用しましたが、この「こころざし」に託されるものは、一人一人の生き方にかかわりますので、非常に意味深い文字として大事にしていきたいと思います。ちなみに、この家が建てられた安政6年は吉田松陰が自らの命を賭して「志」を貫き処刑された年でもあります。

古川保設計士との出会い

 最初は東北の農村で見るような大きな梁を持つ板張りの民家を移築しようと考え、日本民家再生協会の友の会会員になり、協会の民家バンクで古民家を探していました。参考のために、アレックスカーが古民家を再生し宿泊施設にした徳島県の祖谷を訪れたり、民家バンクに登録してあった山口の長門、埼玉の川口、茨城の筑波の民家などを見て回りましたが、専門家から移築だけで数千万かかるので、できれば地元で探すのが良いと勧められ、断念しました。この協会の民家再生専門家に登録していたのが熊本の古川保設計士でした。たまたま戸穴の祖父の生家を見つけ、初期調査をして下さった佐伯組の佐伯さんが古川先生と昔伝統建築の研究会で一緒に学んでいたことを知り、佐伯さんを通して連絡をとり、熊本でお目にかかって祖父の生家の再生を打診したところ、快諾していただきました。一方で、私の母がテレビ番組のビフォーアフターで古川先生が天草の元旅館を再生する番組をたまたま録画していて、同一人物だと知り驚きました。こうした縁によって、2014年のビフォーアフター大賞を受賞した古川先生に設計していただくことになり、大変光栄でもあり、アフターの古民家の変容を見るのが楽しみでもあります。

遊志庵がオープンしました!

2017年4月29日の「アフターを観る会」において遊志庵がオープンしました。

住所

876-1106 大分県佐伯市戸穴字中間1304-1
 

Follow us